雨のノエル
ここにはいろんな雨が降っている。誰もが、その雨に体を濡らしている。
鉄の雨、燃えさかる火の雨、そして赤い雨。
それがやんだら、よどんだ黒い雨と、悲しみの雨。
ぼくは幸運なことに、どの雨にも濡れてはいない。でも、それって本当に幸運なんだろうか。いつかはぼくにもそんな雨が降りかかってくるかも知れない。明日かも知れない、もしかしたら今すぐかも。結局、そんなの、ぼくには分からないんだ。
そんな程度の幸運に一喜一憂していられるほど、楽観的な状況でもない。
戦場っていうのは、そういうものらしい。
本当はぼく、雨が好きだったんだ。
ぼくがまだ子どもだったころの話だ。
雨に濡れて帰ったことがあった。あれはいくつぐらいだったろうか。
学校から帰る途中で、急に空がまっ暗になった。遠くの方で一瞬なにかが光った。
大きなものの落ちるような音がして、その音がぼくのおなかまでをふるわせた。
数秒後、ぼくはびしょ濡れになっていた。
なにが起こったのか分からないうちに、ぼくはパンツまで水浸しになった。
そのとき、ぼくは思ったんだ。
このまま帰ったら怒られるんじゃないかって。
顔に濡れた髪の毛をはりつかせて、冷たい体をふるわせて、ぼくはびくびくしながら帰った。
ぼくの帰る場所は、ぼくの家じゃなかった。物心ついたころから、ぼくはずっとそこで暮らしていた。
両親の顔なんてほとんど覚えていなかった。
どういう理由で、両親がぼくを手放したのかは知らない。たぶん、ぼくが他の子どもとは少し違っていたからなんだろう。ほんの少しだけ。
それでも両親は、そのほんの少しが自分たちには手に負えないと、あきらめさせたのかも知れない。そのほんの少しの重さが、秤を傾かせたのかも。
まあそんなのは憶測だ。ぼくはずっと両親に会ってはいないし、話を聞かされたこともない。自分から聞いたこともなかった。
知ったところで、なにか変わるわけじゃない。ぼくが両親と一緒に暮らせるようになったりはしないんだ。知らなければ、うらんだりも憎んだりも、寂しくなったりもしない。
ぼくの住んでいたそこには、家族はいなかったけれど、いろんな人たちがいて、ぼくの世話をしてくれていた。寂しくはなかったし、なんの不自由もなかった。
それでも、まわりのみんなは、ぼくとはなんの関係もない他人で、だからぼくはいつもひけめを感じていた。
面倒をかけたりしたら、怒られるんじゃないかと思っていたんだ。
びしょ濡れになって帰ったりしたらね。
でも、そんなことはなかった。
帰ったら、みんなが心配して出迎えてくれた。
ふるえていたぼくを、ふわふわの白いタオルが包んでくれた。
シャワーは、すっかり冷えてしまったぼくの体をあたためてくれた。
ヒーターの前には、ぼくと同じぐらい水浸しになった鞄の中身が並べられていた。
新聞紙の上に、濡れてしわしわになった教科書やノートが並んでいた。
ぼくもそこに一緒に並んで、髪の毛を乾かしていると、肩に手をおかれた。
風邪をひくといけないからって、ホットレモネードをさしだされた。
湯気の立つそれをちょっとずつすすっているうち、ぼくの体になにかが流れ込んできた。
あたたかいなにかが。
そのとき、ぼくは感じたんだ。
ああこれが幸せっていうものなのかって。
ぼくはその日から雨の日が好きになった。
傘を持っているのに、わざと濡れて帰ったりもした。
誰かほかの子に傘を貸してあげたりしてね。
返してくれる子もいれば、そのまま知らんぷりする子もいたけれど、ぼくにとってはどっちだってよかった。
ぼくには傘なんて必要なかったんだから。
今になって、なんでみんなはあんなに優しかったんだろうって思う。
今じゃ、ぼくは本当に傘が必要なくなった。
雨の中を傘もささずに歩いたって、濡れることはない。ぼくの体の少し手前で、雨は弾かれて地面に落ちる。
歩くことだってなくなったくらいだ。どこかに行きたければ飛んでいけばいい。
でも、ぼくの力なんてのはそんな程度のもの。降ってる雨をやませたり、雷を落としたりできるわけじゃない。
ただほんのちょっぴり便利なだけのもの。
だって雨に濡れたくなきゃ傘をさせばいいんだし、歩くのが嫌なら車にでも乗ればいいんだ。遠くに飛びたければ飛行機にでも乗ればいい。
ぼくなんかは、ただ、ほんの少し、他とは違っているっていうだけでしかない。
それは子どものころから、そうだった。
だからみんなが優しかったんだろうか。
そんなことはないな。
ぼくが特別な子どもじゃなかったとしても、きっとみんなは優しかった。
いや、それも違うな。
たぶん、そう、子どもはみんな特別なものなんだ。
ひとりずつ、みんなが特別な子どもで。
そんな子どもが、今日も生まれた。
昨日だって生まれたし。
明日もきっと生まれる。
まるで毎日が聖誕祭なんだ。
そのうち、ぼくの子どもが生まれる日だってやってくるかも知れない。
そんな日だって、いつかは。
そうしたら、彼にも、帰る場所をつくってやろう。こんな雨ばかりの場所じゃなく、しっかりした屋根のある場所を。
雨に濡れてみじめな気持ちで帰ってきても、あたたかく迎えてくれるような場所を。
本当の意味で、彼が特別な子どもでいられるような、優しい場所を。
はたしてぼくにできるんだろうか、ほんの少しのこの力で。
もしかしたら、ぼくはここでいなくなってしまうかも知れない。雨がやむのを待っているうちに、びしょ濡れになって、もうそれは乾くこともないかも。
なんてね。そんな疑問にはなんの意味もない。
ただ、やるだけのことさ。
ぼくがみんなに、そうしてもらったように。
雨の日を好きになるように。
こんな雨でも。
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